今年もまたもうすぐ3月11日がやってくるわけですが、まあ私はあの日から1週間ばかりの間、すっかり日本は変わってしまったと本当に陰々鬱々とした日々を過ごしていたわけです。まあ理由は色々とありますが、やはり自分にとって一番ショックがデカかったことは原発の事故です。

私は20歳くらいの頃にチェルノブイリ原発事故の実態を知りましてね、かなりショックを受けていたわけです。更に日本も相当な数の原発を持っていることと、チェルノブイリ事故があってもなお止めるつもりが無い日本に、かなりショックと失望を隠せませんでしたね。あれから25年くらい経って、日本でも事故が起きて、ああやっぱりあの時感じた違和感、まあつまりは日本人の危機感の無さに対する絶望感は正しかったんだなぁと、人間の感性って間違っている様で正しいんじゃないか、人間の直感ってバカに出来ないんじゃないの?って改めて感じたわけです。例え論旨が滅茶苦茶で上手く説明出来なくても、そこに感じる違和感や嫌悪感というものは、決して錯覚なんかじゃないんだってことを、私は福島の事故ではっきりと認識しました。

グラフ 年次 2012年~2014年 急性心筋梗塞の標準化死亡比でみた死亡リスク格差(都道府県マップ) 男性の急性心筋梗塞の 標準化死亡比 (2012年~2014年) 【出所】厚生労働省 人口動態保健所・市町村別統計

まあ上のグラフを賛成派に見せたところで「は?心筋梗塞だけが1位だろ?放射能との因果関係は?」で一笑に付されるだけだと思う。それに対して有効な反論というのもあまり無い。

だけどやっぱり違和感というか、こうひしひしとこみあげて来る不安な気持ちってものを、それらで納得させることが出来ないんだよね。

若い頃原発に反対だって言ってた頃は、賛成派に散々「もし止めたとしてそれによって起こるデメリットに対して責任は取れるのか?取れないのに止めろって言うから子供だって言うんだ!」と言われてましたね。正しいと思います。子供ってのは無責任で言いっ放しですからね。大人から見たら物凄い腹立たしいんだってことも、大人になった現在の私は理解出来る。でもね、無責任だからこそ言えることってのもあるんだよね。

大人ってのは色々なしがらみがあってね、間違っていることに直面しても直ぐに「間違っている!」という風に直結して考えられない癖が付いているいるんですよ。つまりその周囲の関係者のことを慮って(おもんばかって)しまうわけです。去年流行った「忖度」にも繋がるわけですけどね。

だけど物事の本質というものは変わってないわけでね。原発の物事の本質は「安全性に問題あり」っていうことですよ。周囲への慮りの対象は原発の利害関係者達です。

周囲への慮りばかりを優先させてもね、当たり前ですが物事の本質はまるっきり変わらなかったわけです。安全性よりも利害関係者達の利益を優先してしまったわけですよ。

チェルノブイリの事故が問題になった後ね、結果的に当時の日本人が選び取った道は、

「安全性には確かに問題はあるが、無くしてしまった場合のデメリットの方が大きい。だから安全性に配慮しながらも継続すべき」

です。

子供だった私の直感から来る「危険だから止めとけ!」は却下されました。

 

だからね、自分も含めた当時の大人は、原発が危険であったことは誰もが認識していた筈なんですよ。

 

私は介護の仕事をしているので、常に転倒事故を始めとする入居者の事故を目の当たりにしているわけですが、何か違和感がそこにあるってことが、後から考えたらとても重要だったってこと、いっぱいあるんだよね。だからそういう直感みたいなものって無視しちゃいけないんだよ。

まあでもまたこれから次々と再稼働させていくわけでね、またまた安全性なんてものは二の次三の次でね。「止めろというならそれに伴うデメリットに対して責任取れんのか?取れないんだったら口出しするな!」と言って反対派を黙らせて、そしてきっとまた何年か何十年か経った頃、事故を起こすと思います。

その頃までに放射能を無毒化する技術とか、ガンや白血病や心筋梗塞を克服出来ていればいいですけどね。

本当の愛国ってなんだろうね。
利害関係者の利益を優先することが愛国なんでしょうかね。
その辺をもう少し考えて欲しい。